”中古車センター”はあなたにとって宝島!!
ちょっぴり期待を込めて参加のうん年振りの同窓会。憧れの彼女との会話に花が咲くというまさかの展開。
おまけにバツイチと言うではないか・・・。
さて、不謹慎さ漂う中での展開はいかに・・・!?
懐メロで往時にタイムスリップするのと同様、1台のクルマであの頃の想いが甦ることもあります。

全国各地のオークション会場においてお客様のニーズに沿ったおクルマを厳選仕入れしております。
当社にないおクルマでもお客様に最適な1台を根気強く(迅速に)捜します。

パソコンの画面を見ながらご希望に沿える様ご提案・打ち合わせ。
国産全メーカー新車の見積りシステムも稼働中!メーカー各社の人気車の検索や、
各グレードの装備の違いの確認、お車のドレスアップの提案、残価設定型ローンでの
ご提案などでお客様目線でのお車捜しをサポートします。

お客様をご案内できる店舗そのままのフロアを目指しました。
経験ゆたかな笑顔のメカニックが丁寧にご説明さし上げます。
また、サービス風景も待ち合いテーブルに各設置のモニターで、
観察でき快適です。

当社で車検を実施またはオイル交換会員(無料)になって頂くと
・軽自動車 1,000円/台 ・普2000迄 1,500円/台 ・普2000超 2,000円/台
使用オイルはエコカー0W20他3種/お車のコンディションにより使い分けております。
(機種により、高性能抜取機使用)

お子様が遊べるスペースとしましてキッズルームをを完備しております。
おもちゃや絵本などお子様を飽きさせない代物をたくさんご用意しております。
当店スタッフの目の届くところにキッズルームがありますので安心・安全です。
この間に、お客様の素敵な1台をお探し下さい。

タイヤやパーツなどの持込も可能です。
愛車のドレスアップにお役立てください。
詳しくは当店スタッフまで!!


会社概要

商号 株式会社 丸久自動車
所在地 香川県高松市下田井町519番地
電話番号 087-847-6003
営業時間 9:00~19:30(日・祝祭は18:30迄)
休業日 毎週水曜日
法人設立 昭和50年8月1日
資本金 1,000万円
従業員数 16名
業務内容 新車・中古車販売・車検・整備点検・板金塗装・各種損害保険・レンタカー

 

社長挨拶

丸久自動車は半世紀余り前、私の両親が相当な苦労の末再起をかけて創業したと聞いております。創業数年後があたかも「三丁目の夕日」の鈴木オートそのままであったと幼少時の記憶で残っており、物はなくとも常に正直で懸命に生きる人々の温かみを今以上に感じておりました。
以来幾星霜、様々な流行や文化が価値観の変化を伴って通り過ぎてゆきましたが、私たちにとっての原風景は常にあの頃のままです。お陰様で当時からすればささやかですが夢の様な快適な活動が出来るようになりましたが、初心を忘れず今後も地域に根ざした「敷居の低い正直/一所懸命な店」としてスタッフ一同歩んでいきたいと考えております。

私の修行時代(序)

初めに
 申すまでもなく事業体/企業にとっては“人”こそ最大の資源であります。以前「中小企業の人材確保セミナー」に出席した折、女性講師より「良い人財が採用できても育成する側である経営者や人事/教育担当者が新人の気持ちを理解できていなければマネージメント以前の問題であります。皆さんが“新入社員時代”の事を思い出しその会社(職業)を選んだ動機と経過年月に沿っての不安や困った事、逆に嬉しかった事などをまず書き出して下さい」と言われた。
 この私にピッカピカの新入社員時代などという晴れがましい時期があったかなと思い浮かべましたが、強いて申せば学卒後一人前と認められる迄の3年間の修行時代こそが蒼い時代の締めくくりだったと考えました。かぐや姫(南こうせつ)の“赤ちょうちん”を聞くとしんみりと思い出していた当時の事を書き出しました。

“私の修行時代”

VOL,1  従兄の最後の闘い
 2月の寒い日曜日の午後すぎ水泳教室の指導を終えて定例となった従兄の入院先に見舞いに伺った。このところ頓に面相が変わってきた様に感じる。それは前年秋に風邪然とした症状が始まりで、その後手術開腹するもそのまま収めたと聞いている。本人へは非告知の時代の痛み止め療法での入院処置。少し前までは「術後の日にち薬」を信じて治癒後の夢を語りそれを聞くのが哀しく辛かったし、逆に私の体を案じてくれたりもしていた。今はもはやそれも無い。母方の従兄にあたるこの人は一廻り上の33歳で高卒後農家の跡取りとして就労されていたが、他人の悪を言わず己の善を語らない人柄で誰からも好かれていた。上の子供はこの春就学年齢で細君のお腹の3人目は臨月も近い。その細君は無言のままだが、ご両親の落胆ぶりに言葉が出ない。やがて末期の激痛に耐えながらも3人目が産まれた安堵からか程なく亡くなった。生きたくとも叶わぬ思いがこの世への名残りとしてさぞかし寂しく切なくそして無念であったと察する。
以前法要時に般若真行白骨章の 朝には紅顔ありて・夕には白骨となれる身なり・・の導師の解説にあった「明日をも知れない命でも現世での懸命な生きざまを仏様はしっかり見ておられます」が浮かんできた。
 修行時代1年目終りのこのご不幸な出来事は“赤ちょうちん”の歌詞の1節「生きてる事はただそれだけで哀しい事だと知りました・・」生ある限り出くわす哀しい場面でも生かされている事を忘れず周囲に感謝して歩むよう教えてくれました。

VOL,2  前幕 高専での5年間
 私にとって二輪車は幼児期より囲まれて育ったせいか家族の一員の様な存在でしたが、当時街中で見る市販車はせいぜい2気筒エンジン(核が2基で排気管2本出し)でした。内燃機関大好き少年が高校受験を控えた時期に初めて買った専門誌に世界中のサーキットを席巻していたホンダ、ヤマハ等のレーサーが紹介されておりました。それらの工場レーサー搭載のエンジンは市販車とはかけ離れた時計の様に精密で複雑なメカニズムにより超高回転で大出力を捻りだしており、排気量125ccで5気筒/250ccで6気筒のホンダレーサーや水冷2サイクルV型4気筒250ccのヤマハレーサーに衝撃的な感激を覚えました。「(やがては家業を嗣ぐにしても・・)将来この分野で開発・設計に関わりたい」と夢見ました。そして国立の高松工業高専ならその夢も叶うかもしれないと進学を決めました。
 もう一つ水泳選手として速くなりたいという夢もありました。この学校では豊かな自然(当時)に育まれてまた多くの人たちとの出会いに依って様々な事を授かり今なお感謝一杯ですが、ここでは運動部で特に影響を受けた事案に限定させて頂きます。
入学当時の陸上部に山田俊文選手という中距離王(高3のその春1500mで県新記録/翌年3分57秒7という現代でも通用する記録を残した)が居られた。学校の300mトラックや周辺ロードで鍛え上げてここまで強くなったと聞く。「競泳初心者の私でもこの短水路のプールで懸命に頑張ればある程度迄はいけるかも・・」とほのかな希望を持ちました。
 様々なご事情で中途で離脱される方も多数おられた中で5年間競泳に熱中できた事は幸せでした。ここでは1級上の藪下敏美先輩(後の高松SC専任コーチ時代に県スポーツ功労賞授賞)の自由形をずっと追い続けました。練習後は深呼吸する度にキリキリ胸が痛んだが、肺活量は入学時の3800ccから卒業時には5900ccまで膨張しました。当時は水の中での練習は夏場の正味3ヶ月でオフの冬場はプールサイド/4年秋より完成なったサーキット練習場/での筋力トレと相当なラン二ングで下校時間は変わらぬ毎日でした。自ずと走力も付き校内マラソン大会では陸上部中長距離陣に次ぐ12位まで上がれ(重荷の上半身を考慮すると)スタミナ面では十分納得ものでした。学業面では溜っていく宿題:高専名物のレポート作成で日曜日は大抵終日つぶれていました。また当たり前の事ですが夏休みなど長い休みは家業の手伝いをずっと続けました。
学年が上がるにつれて私の様に運動部でさらに過熱する者はむしろ少数派でしたが、同じクラスにヨット部の黒田光茂君がおりました。彼も密かに全国大会(国体)を目指しておられ夢を語りました。最後の夏の県予選では際どい負け方で涙を呑まれ落胆されたが、その後ヤマハ発動機に進み4年後には堂々モントリオール五輪に出場された。友人の端くれとして誇らしく感じております。またかなり後の余談ではありますが、このプールでは(後輩にあたるSS育ちの徳田貴人君がH17年の全国高校選手権200m平泳ぎで優勝して3年次で修了/より広いラウンドを求めて早稲田へ転出)彗星の様な選手も練習された。

VOL,3 進路変更決めた出来事
高専4年を終えての春休みヤマギシ会という無所有一体を唱え共同生活をされる三重県農場実践地での8日間練成に出かけた。ここは十何年前わが家が破産するおり父が金策にいった義兄に諭され条件として参加したご縁の場所です。様々な状況下の参加者(学生運動崩れや一見前科持ち風の人とか昔の父の様に事業で崖っぷちの人も)が自分捜しに来ておられた。研鑽のメインは「怒り」とか「自由」とかと云った1つのテーマについてのグループ討論ですが、7泊のうち定時の22時終了は2夜のみで徹夜2夜を含めて夜通し徹底解析するといったものでした。殆んど孤立無援だったどん底の父はどんな気持ちでこの研鑽を受講したのかと往時を想った。ただ安気な気分で参加した私には物事をそこまで考え抜く必要性について世間には様々な方がおられるなと感じる程度であったが、間もなく傍観視できない様な展開が待ち受けていた。
やがて5年生となって同級生は就職活動を本格化させてゆきました。私も入学時からの夢の実現に向けて活動開始したのですが、ほどなく家族内に異変が生じました。まず母が以前から患っていた子宮部にガンの診断。ほどなく父も喉頭部にガン罹患というドラマの様な現実が起きたのです。この最大の危機に臨んでの姉のいち早い行動に驚きました。やや左寄りと感じる時もあった人が「わが家の一大事」と当時より人気企業だった東京海上火災を惜しげもなく退社して家業を手伝いだしたのである。
現代の価値尺度では家業に殉ずるという行動は到底理解できずとも老親の介護で会社を早期退職なら理解できるだろうか? 私も企業への就職は断念して早期に家業の整備工場でも従事できる様に整備学校へでも進むべきか思い悩んだが、決心がついたのは7月末の最後の高専大会でもずっと目標にしていた浜田憲一君にとうとう勝てなかった後でした。 
 卒業後は整備士養成学校へ行きたいと進路指導の先生に相談した処「国は君たちを育成するのに幾ら掛けていると思っているのかね?」と呆れられた。都会への憧れと若気の至りで短絡的な結論だったのだろうが、たかだか(失礼!)2級の整備士資格を取る為だけに2年間も県外(当時は東京八王子ほか数か所のみ)まで行かずとも地元でもなんとかなるだろうともアドバイスされた。整備学校だと資格取得まで実習を通して論理的な教育もしてはくれるだろうが、同級生が稼いでいる場面にあってさらに家に負担を掛けるのはいかにも心苦しいというのが実は本心ではあった。現状を見据え費用を掛けずにこの資格と可能なら(不完全燃焼の)競泳も続けたいと方策を模索したが、整備工場の指導団体である整備振興会が第2種養成機関として年1回3~4ヶ月程度の夜間講習会を開催しており受講後の国家試験で高専卒なら最短3年で2級まで到達できる事がわかった。それなら昼間家業を手伝いながらでも可能だろう・・。 注)平成16年新設された1級整備士資格はこの時代存在しなかった
夏の終わり頃には両親もとりあえず復調なり私が地元に残る事を伝えると大変喜んでくれた。この両親は複数回の手術後は一病息災そのままについ先年迄健在であった。生前は「ご先祖様のお加護で」と日々仏壇に感謝していたが、誠に有難い事であったと感じる。

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私の修行時代(中)

VOL,4 夜間大学への就学 
社会人として水泳を継続的に続けられる施設は当時県内には皆無だった。旧知の香川大学水泳部員より来春には長水路の新プールが完成し皆張り切っていると云う話を聞いたのは年末近かった。ここに3年制の短大夜間部があるというのは親類が通っていたので知っていたが、ここで練習出来ないだろうかという囁きがふっと聴こえた。只ここに勤務後通うとなると先述の夜間講習と重なる時期もあるだろうし、3年間も続ける事は並大抵ではないだろう。中途で棒が折れたら笑われるだろうなと決めかねていた折り近しい人に相談した処が「いまさら短大へ行くのか? それも夜間の。まあ世間には大学を出て就職してから定時制の商業高校に通われている人も居ることだし悪くもないだろう。ただ君の言う水泳練習の為だけなら賛成できないな。そこでも学びは幾らでもある筈だ」
2級到達も最短で3年先ならこれは天与の修行期間と位置付けよう。辛抱しての3年先には必ず違った景色が見えるだろうと就学を決めました。
 昭和48年4月 私は新生活をスタートさせた。スレート葺き整備工場2階にあった寮は4部屋あり同年代の県外からの実習生も含めて概ね満室でした。徒弟住み込み制度の名残りで食事賄いはおかみさん(母)他が用意しており、建物は粗末でしたが十分な空間でした。そこでの1日は6時起床で陸トレ(ランと筋力)後に朝食。それから17時迄見習い工として勤務して大学のプールへ急行し18時半で切り上げて講義教室へすべり込む。それを21時に終えて帰寮後は筋力トレしてから食事後の学習で終了。秋以降はプールの代わりに整備講習会場へ。日曜日以外はごろごろ出来る様な時間は皆無に近かったが、丁稚奉公で修行中の者が水泳モードの生活をさせてもらえる分幸せと考えた。高専時代の対抗戦などで概ね分かっていたが当時の大学水泳部は半数は初心者として入ってきた部員で目立つ選手は1歳上の三谷光雄先輩(当時の背泳ぎ県高校記録保持者で後に西讃の中学校長となられた)位であった。またプールサイドでは2歳上の高山正樹先輩(その年は大学院浪人中であられたが後に大阪大学教授となられた)が監督然と檄を飛ばしていた。お寺での合宿やらコンパなど練習以外でも昼間の大学生との交友は興味深かった。後に桧原 工君(全盛時代のセシールで副社長を務めた)らが入学してきた。仕事の面では先輩の職人さんや厳しかった父から時にはきつく注意される事もあったが、今では有難く感じている。またこの時期修得した生活リズムは後年も継続でき「働きずくめでもストレスが溜りにくい体質」は今もって自分のスキルであると申せる。
この期間に要した入学金から学費に整備受講料とか水泳での遠征費ほか通学用の中古車の月賦まで含めた生活費用の全てを倹約しながらも自分の給料でなんとか賄った事はずっと後になって子供らに自慢できる話となった。

VOL.5 「訪ソ青年の船」に参加
 2年目の春に香川県より「訪ソ青年の船」団員募集がありその要項を渡してくれた母より強く勧められた。敦賀港のある福井県ほか日本海側数県との合同でソビエト連邦ナホトカ港に上陸後はシベリア鉄道と航空機でモスクワやキエフを訪れ現地の青年たちと交流するというものですが、本県はそれまでのほんの数名枠からこの年以降2~3年に限って定員増でした。20歳代の県内で就労されている健康な人というのが対象でしたが、費用面では28万円の半額を県が、残りを所属事業所等が負担するというもの。勤労学生だった事がこの時は幸いした訳です。筆記作文試験と面接査問があり到底選考されるとは思ってなかったが選ばれた。県派遣最年少団員としてかの地での体験を深く頭に刻み込もうと誓った。
 ただ、それからが大変でした。8月下旬の出発まで週末の大抵は国分寺の県青年センタ-で事前研修が行われ水泳シーズンさなかにあって日程やら時間調整に苦労しましたが、地元の同年代プラスの方々との交流は有意義でした。団員の顔ぶれは地銀の幹部候補生とか教員など公務員、青年団活動をされている地場事業所お勤めの方など様々でしたが、地域に根ざした活動を評価されて選考されたなと納得。
 8月20日より2週間余のソビエトへの親善使節としての旅行は感激ものでした。まずシベリア側ではこの地で土となった旧日本兵や軍属の方々への表敬墓参。終戦直後在満の60万人もが強制連行され酷寒のなか貧食での重労働を何年間も強いられたあげく1割にあたる方々が亡くなったと聞く。望郷の念叶わぬその無念さを偲んだ。また鉄道車窓から終日見える原野や大型船舶が航行する中流域でも海の様なアムール川に白樺の巨木林など雄大な大陸の自然に圧倒された。モスクワなどヨーロッパ側ではクレムリン宮殿をはじめとする中世からの教会・美術館などの文化建造物と史跡群に感嘆。未来都市の様相の地下鉄駅など現代の公共施設のあまりの立派さと比べて一歩立ち入ると粗末な庶民の民家とか地方からのお上りさんツアー客の質素な服装など。2度にわたる祖国戦争での英雄たちの銅像や共産国家としてのアピール看板の余りの多さにお国柄の違いを感じました。ただ日本にも愛読者の多いトルストイの作品の登場人物と街角のアイス売りのおばさんや期間中お世話になった現地通訳の大学生らと比べて時代背景は移っても価値観は殆んど変わらないと感じました。「違い」は民族の違いからよりも支配体制に起因しているなと思いました。
 帰国後の県への報告会とか満州におられた近所の人たちなどをお招きしてのみやげ話の場で感じた事は、ご年配の方々は両国の関わりについて日露戦争はともかく今次大戦での終戦前後における国家としての火事場どろぼう的行為などでぬぐえぬ不信感が感じられた。尤もこれらは“国を滅ぼした昭和の陸軍”の暴走が全ての導火線であったと思うのだが・・。若かった私たちにこの使節の果たした真の目的や政治的な意義など分かろう筈もなかったが、現在に至るも北方領土問題は進展しておらない。ただ期待を背に税金で派遣させて頂いた者としてこの貴重な体験をなんとしても今後に活かす事が責務と考える様になった。
短い期間ではあったがこの真夏の夜の特大花火を見た後の様な若い日の鮮烈な体験は以来いつでも引き出せる心の隅の宝石箱にロシア民謡の伴奏映像として大切に収めている。

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私の修行時代(終)

VOL,6 折り返し点での水泳への想い
 ソ連から帰ってきて一段落後に残り1年半でなすべき事を考えてみた。話を本筋に戻すと夜学に水泳に訪ソと色々出てきたが、この3年間での最大の目的は仕事を覚えて2級の資格も取得する事であった筈である。3級の資格は1年目の終わりに得ており3年目の終わりには受験資格も出来る。2級は先の3級の2倍強の内容があると聞いている。夜学の定期考査など短期決戦だと高専で身に付けた特技の「一夜漬け通過」でなんとかなってきたが、この場面では年末以降中期的な対策をしないと難しいだろう。
ついでながらの順位になる水泳だがこの3年間記録は伸びていない。本音としてはやり残している事の最優先課題であり未だ1シーズンだけ残されている。これまでの練習内容を再検証し、さらに生活面も見直して余り時間の全てを最後の夏に賭けてみようと思った。
 前年の終りに新築なったオークラホテル高松10階に県内初の温水プール(18m)が出来ており高松市水泳協会の有志の方々が都会の有力スイミングクラブを模倣してこの地より未来のオリンピック選手を育てるべく日曜コースで胎動していた。指導現場での中心コーチは後に松田成利選手を育てた黒川 忠氏であり、私にも端くれとしてお誘いがあった。スクール生は殆んど小学生であったが、中学生や高校生の有力選手のいる学校も練習に来られていた。水連も質より量といった従来の泳ぎこみ一辺倒から米国流の水泳の科学に路線変更しだした頃だった。やがてはこちらで育った選手たちが異次元の記録で泳ぐ様になるだろうと時代の流れを予感した。著名な指導者であるDr.カンシルマンの著書「競泳のコーチング」に出合ったのもこの時期である。それまでの指導書ではあまり触れられてなかった長いスカーリング(掻きの軌跡)と推進時の姿勢に重心移動の効果などわかり易く流体力学に沿う解析がされており、なかでも最も唸ったのは筋肉の特性の違いに関する項目であった。「パワーに依ってフォームは定まる」とはミュンヘン五輪優勝の田口信教氏のある時期での発言であるが、このパワーは重量上げ選手の筋肉:赤色筋に非ずという事。素早い動きに対応できるが非持久性の白色筋を生み出し水泳練習によって持久性を備えさせたものが必要であると記されていた。それならば高専時代には効果的だったので盲心的に辛抱状態でずっと継続してきた古典的な陸トレの大半は何だったのか? 今では常識のこれらの知識をわかっておられる指導者や選手が当時は少なかったと思う。専門的な講釈はこの位にするが従来の考え方を切り替えて練習に臨んだ。僅かな時間距離だが冬でも泳げる施設は素晴らしかった。春以降も最後と念じて冷たいプールの時期から頑張ったが凡庸さは否めず変わり映えしない結果で終了した。「競泳のコーチング」の巻末に書かれていた  競泳での栄誉は限られたオリンピックチャンピオンだけでなくごくローカルな大会のプログラムに載った全ての選手の人生にも価値あるものとして与えられる・・がホロ苦かった。

VOL,7 最後の半年で為すべき事
 そちらはそういった顛末でしたが、最後の半年では2級の資格試験と勿論の事この夜学も卒業できちんとけじめを付けたかった。夜学も1年目や2年目前期までは常に教室へはすべり込み態勢で同級生(年配の方や公務員風の方、バイトで繫いでいる方も居られたが皆に向学心を感じた)との交流も実質無かったが、以降のゼミでは少人数単位なので自ずと親しくなった。指導教官は東大を出て数年目の大和田昭邦先生(私たちが最初で最後の受け持ちで翌年には家業の高松高等予備校へ転出され後に理事長にご就任された)で、このゼミの仲間とは事あるごとに飲食や新婚の先生のお宅に押し掛けたり、1泊2日の小旅行で夏の鳥取や卒業前には松山/高知方面へと出かけた事が楽しい思い出として残っております。
 整備士として家業の整備工場での実務でもこの頃には一通りの内容が分かってきた。貧弱な設備でも当時の車もシンプルだったので、なんとかなっていた。
やがて長い講習会が始まった。こちらの養成機関として実技面では5月の講習会最後の見極めをもって修了となる訳であるが、私の学科面での受験資格は3月下旬の国家試験で有効である。その期の講習会の殆んどの受講生は夏の認定学科試験を目指していた。年度内にという思いから講習会半ばでの受験に挑む事を決めた年末から独学で履修してはいたが、複雑難解な箇所はとにかく問題を全て憶えた。最後に登場ですが、私には3歳下で身の程をわきまえない受験生の弟がおりました。終盤戦が同じ時期で徳島大学M学部の受験に同行した2日間は待ち時間で私もすごく学習でき、数日後の学科試験ではたまたまですが全問解明できた事は幸運でした。


最後に
 
こうして書き出してみると本音としての追想イメージ的には常に時間に追われ金銭面でも乏しくまた理不尽さや思い通りにならない為に蒼さ故の葛藤しきりであった筈ですが、思い悩んで眠れなかった様な記憶は既に霧散しており逆にそんな場面でも家族や多くの仲間に助けられてハッピーに転じた事や多くの人との出会いの素晴らしさが思い出されます。はたして3年前に思い描いた達成感や違った景色はありませんでしたが、後年難題に直面する度に「あの時代と比べてどうか?」といった自分史における一つのランドマーク的な位置付けとなったこの修行時代でした。

「そんな時代もあったねと いつか話せる日が・・」同年代の歌姫の歌詞がなぜか浮かんできました。

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